跳躍

当然だけど昔の自分と今の自分では違っているところがある.書き残していた歌を見ていると,結構顕著にその違いが見える.昔の歌はまず,詞ひとつあたりの量が今と比べ多い.今の量はルーズリーフ言えば,詰めて書いた場合,一枚の半分かそれよりも短いけれど,昔のは一枚の詰め詰めにまであった.書きたいことを書きたいまま,ただ存分に書き連ねていってその出来上がりに何となく合うようなメロディ,コードをつけて歌にしていた.今は,メロディを考慮に入れながら,全体を見通しながら歌詞を書いたりすることが多くて,メロ間の空白であったりを意識して作っている.だから量は少ないけど,今の方が仕上げるのに時間がかかる.
詞の内容にしても,今は,何が言いたいか,であったり,聞き手を意識したときにしっかり伝わるであろうか,であったりに自分なりに気を使いながらまとめていっている.メロディも難解なものや複雑なもの,果たして全体としてこれでバランスは取れているのだろうか,というようなものは作らなくなって,シンプルで誰もが簡単に口ずさめることを目指したものが多くなった.
結論として言いたいのは,自分が歌っていて面白いのは昔の歌だったりするということである.ややこしいメロディが急に出てきたり,よくわからん言葉の連結の歌詞であったりする昔の歌は,歌っていると確かに面白い.歌いつくせないものも多く,特に魅力も感じないものもあるのだが,その中にはおもちゃ箱をひっくり返したような意外な驚きがあふれている.
聞き手を意識しない自由さが,とにかく痛快で,作品ものびのびしていて,そこには飾らない自分の本性が見え隠れしているように感じる.それを,今になって歌い上げようとすることが,とにかく楽しい.もう一度あの頃のように作りたいってのが最近のテーマだけど,身に付けてしまったこと,知ってしまったことを失くすというのは,とっても難しいようだ.少しずつ若者に憧れるおっちゃんになってしまっている自分がいるが,そこを一度乗り越えてみたいと思う.
僕はアーチストの音楽を聞くにあたってもそういったことが気になっている.スピッツの’スピッツ’,’名前をつけてやる’や友部正人の’にんじん’,ミスチルの’Versus’,中村一義の’金字塔’,もちろんそれ以降でもこれらのアーチストの好きな作品は一杯あるけれど,これら初期の作品からはハツラツとした感じ,可能性の広さ,何にも捕われていない自由さを知る.試行錯誤した末になった形であると思うけど,その試行錯誤が何よりも楽しい迷い道であるような,必ず行きたい場所にたどり着けるっていう自信というか勢いというか.
まあ,何にしても楽しむことに,萎縮することは無い,て捕われることは無い,てあまり着地点を思わずに行きたいなってことです.