ながーいけれどうすーい内容

この日記の結論はおそらく,人を信用していないんだろう,になると思われるが,少々述べてみたいと思う.


まず,今日人に指摘されて気づいたことは,人それぞれには核の部分があるはずだ,とか,人の変わったところには何らかの要因があるはずだ,と決めつけてしまう自分がいる,ことだ.
それは,’あいつのこと,まだまだつかみきれていないわー’とか,’あいつは何であんな感じなんやろうか’という発言から見受けられる発想だ.そこに理由や本質を求めたくなるのは,人間関係を支配したい独占欲かもしれない.


それは思い上がりで,自己中心的な物の見方だ.相手の立場に立って見ること,もっと柔らかな感情を信じたい.


また人は誰しもほめられるとうれしい,という通念がある.本当に誰しもがうれしいのかどうか,自分は基本的にはうれしいが,素直に喜べない時もあるような気がする.一定以上喜んではいけないような,変な制約がある.
何しかほめられて,やったあ,とか思っても,後で周りの人に,あんなの社交辞令に決まっている,とかお世辞ですよ,とか言われたら悲しくなるからだ.


所謂,ひねくれものかもしれない.


そういった場合,どの程度のラインでほめるのか,ほめる側にもある種のマナーが必要になるし,もしくは,ほめられる側で容易にはその気にならないような姿勢も生まれてくる.


自分の場合,ほめられた場合,その気になってはいけないなーと思いながら,その気になっている自分がいて,すごいなあって思ったらすごいなあってすぐ口に出さないと仕方が無く,すごくないと思ったときには気まずい顔をする.


でも,ほめられると嬉しいだろうから,どんどんほめようって少しおかしくないですか?
画一的に(世間的通念に照らした一通りのものの見方)考えてしまうと,人間関係はとても窮屈で面白みの無いものに見えてきてしまう.一般論に過ぎない,という開き直りは大切だろう.


人間関係を支配したいと思いながら,実際はまったく支配など考えていない自分がいる.


また人が人を認める,という概念も非常にあいまいなもんである.一瞬の感動が強いほど,すぐにかすんでいってしまうものであるから,そのことをひしと感じている僕には,永遠などありえないのである.


それは無責任さを含むということか?


人の感性や本能といったものはすぐに移ろうものであるからこそ,そこに寄りかかろうっていうのはやはり違うのである.認められても,次の瞬間ごみにされてしまうことは,当然あると知っている.
でもそればかりになると,社会も生活も成り立っていかないから,人々は理性でコントロールする術を身に付けたんだろう.


人々のコミュニティが信頼しあうことのすばらしさを訴えかけていた.それが無い今は,ただただ身の回りの人との距離感を測りあって過ごす毎日である.


理性の力を信じ,一瞬の煌めきを信じたい.


昔々は,面白ければいいって思っていた.でも,相手のことを考えない独りよがりならばそれは違うものだって諭された.
人間関係のあいまいさを認め,人それぞれの移ろいの儚さを知る.ただただ自分の気持ちに正直に,必要と思われることをしよう.


壊れそうなものに対する優しさをずっと持ち続けていきたいって思うんだ.