第1章

冷たい風が吹いていた.ほほの感覚が無くなりかけてきた頃,じわっと温もりが赤く染まった.弱弱しく太陽は西に沈みかけて,変わらない街の景色が堤防沿いの道にあった.立ち止っていた僕は,歩きだすことを思い出し,縛り付けていたものが何かって,鬱々とした感情の理由がわかったような気になった.「人は挑戦をやめたとき,老いる」と,今朝のテレビで聞いた言葉を思い出す.歩き出す僕を引きとめていたのはもう一人の僕だ.決断を先送りにして,傷つくことを恐れる.そしてそんな僕を見つめた僕はその場所で立ち止まってしまった.

ブルーノート

心は海である.海にぼんやり浮かぶ不安や悲しみは島.
それを紙に書いて,マジックでなぞったりするのが思考.
何度も同じ輪郭をなぞって島と島を結んだりしてしまう.

心は空だ.でっかい空.浮かぶ雲は希望や喜び.
薄れたり濃くなったりして,ただただ見上げている.
それは絶えず形を変えて,穏やかに空をながれ.

ライトブルーの空

自分なんてまだまだ何も知らない
こんがらがった思考を解き明かす方法も知らない
時間に任せてむげに過ごすことも多い


九月の朝に思った 何を?
不完全さを愛そう,と.
その人がいるだけで優しい気持ちになれることもあるし
その人がいることがどうしようもない心の痛みにもなるから.


寂しくなるとそれまでの時間が後悔として襲ってくる.
そして,また僕に見えない何かをちらつかせる.


背伸びはいらないし,飾り立てない.
この胸の扉にあるもの全部使って毎日を乗り越えていこう.


そしてもう少し素直になれば,
毎日は新たなる出会いの予感で満ちている.


巡り巡って全ては一つの形へと収束する過程だとしても


歩みは遅くてもこの道は君へとつながっているから
あと少しだけその場所で,僕のこと待ってて

Yes, it is!!

なんで酒を飲むのかって
ずっと酔っていたいんだと思う
なんでたばこを吸うのかって
ずっと吐き出していたいんだって思う


万有引力を発見したのは誰だっけ


すっかり秋になりました.昨日の晩御飯にはマツタケご飯と秋刀魚の塩焼きが出てきまして,まさに秋味です.
風が涼しくなりました.ひとまずの課題が昨日で一段落したので,明日から友人と旅に出たり,ライブしたりします.


この程は自分の誕生月に対し,少しながら感慨を持つようになりました.トラック競技のスタート地点を通り過ぎるような感覚です.少しオーバーペース気味でしょうか.いや,よくわからんけど.


今月はサークルの同回生に久し振りに会う機会もあって楽しみだし,彩り豊かな月にしていけたらな,とか思うかな〜.

ながーいけれどうすーい内容

この日記の結論はおそらく,人を信用していないんだろう,になると思われるが,少々述べてみたいと思う.


まず,今日人に指摘されて気づいたことは,人それぞれには核の部分があるはずだ,とか,人の変わったところには何らかの要因があるはずだ,と決めつけてしまう自分がいる,ことだ.
それは,’あいつのこと,まだまだつかみきれていないわー’とか,’あいつは何であんな感じなんやろうか’という発言から見受けられる発想だ.そこに理由や本質を求めたくなるのは,人間関係を支配したい独占欲かもしれない.


それは思い上がりで,自己中心的な物の見方だ.相手の立場に立って見ること,もっと柔らかな感情を信じたい.


また人は誰しもほめられるとうれしい,という通念がある.本当に誰しもがうれしいのかどうか,自分は基本的にはうれしいが,素直に喜べない時もあるような気がする.一定以上喜んではいけないような,変な制約がある.
何しかほめられて,やったあ,とか思っても,後で周りの人に,あんなの社交辞令に決まっている,とかお世辞ですよ,とか言われたら悲しくなるからだ.


所謂,ひねくれものかもしれない.


そういった場合,どの程度のラインでほめるのか,ほめる側にもある種のマナーが必要になるし,もしくは,ほめられる側で容易にはその気にならないような姿勢も生まれてくる.


自分の場合,ほめられた場合,その気になってはいけないなーと思いながら,その気になっている自分がいて,すごいなあって思ったらすごいなあってすぐ口に出さないと仕方が無く,すごくないと思ったときには気まずい顔をする.


でも,ほめられると嬉しいだろうから,どんどんほめようって少しおかしくないですか?
画一的に(世間的通念に照らした一通りのものの見方)考えてしまうと,人間関係はとても窮屈で面白みの無いものに見えてきてしまう.一般論に過ぎない,という開き直りは大切だろう.


人間関係を支配したいと思いながら,実際はまったく支配など考えていない自分がいる.


また人が人を認める,という概念も非常にあいまいなもんである.一瞬の感動が強いほど,すぐにかすんでいってしまうものであるから,そのことをひしと感じている僕には,永遠などありえないのである.


それは無責任さを含むということか?


人の感性や本能といったものはすぐに移ろうものであるからこそ,そこに寄りかかろうっていうのはやはり違うのである.認められても,次の瞬間ごみにされてしまうことは,当然あると知っている.
でもそればかりになると,社会も生活も成り立っていかないから,人々は理性でコントロールする術を身に付けたんだろう.


人々のコミュニティが信頼しあうことのすばらしさを訴えかけていた.それが無い今は,ただただ身の回りの人との距離感を測りあって過ごす毎日である.


理性の力を信じ,一瞬の煌めきを信じたい.


昔々は,面白ければいいって思っていた.でも,相手のことを考えない独りよがりならばそれは違うものだって諭された.
人間関係のあいまいさを認め,人それぞれの移ろいの儚さを知る.ただただ自分の気持ちに正直に,必要と思われることをしよう.


壊れそうなものに対する優しさをずっと持ち続けていきたいって思うんだ.

成長の遊び

自分の頑張れるものが見出せたら,あいまいな現実だけども,ひたすらに信じ続けることが大切だ.
手に入る範囲しか求めない,てことは,自分の限界を自分で決めてしまうってことで,そうすれば失敗も無いわけやけど,本当にそれで納得できるんかなー.
実態も伴わないのにひたすら夢のようなことばかり言うのは,大人げないとは思うが,周りに順応した中でいかに自分の考えや想いを伝え,理解してもらえるか,はとても大切なことなんじゃないかな.
目の前におかれた仕事に対して,自分を傾けられるやりがいのあるものだって思えたら,気持ちはすっきりするんじゃないかと思うし,自分が選んだ道ならば,たとえ失敗したって構わないと思う.
やけど,今の時代,未来に対して期待できないってのはすごくよくわかる.もう充分に満たされすぎてるんやろうな.最近はそのことについて考えることが多いけど,答えは出ない.